たわしの帖

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『ゴミ』と『宝物』は紙一重である

 それは、うっすらと雲が空を覆い尽くし、秋の空気の中に冬の匂いが潜んだ午後のことでした。

 東京の端の端──ひとあし分の蟹歩きをすればすぐに神奈川にお邪魔してしまうような端っこの、都会とも田舎とも形容し難い賑わいの街中で。駅の方向へのんびり歩いていると、1人のお婆ちゃんを前方に発見しました。
 某薬局店の前に居たお婆ちゃんは、小さなリュックを背負って杖を突いていたのですが、何故か上半身を前へ倒しては、ゆっくりと背筋を伸ばして反り返る動作を繰り返していた。「前屈の体操かな?」と推測した私は、一度お婆ちゃんの横を通り過ぎ、薬局の横に構えている「宝くじチャンスセンター」へ足を運びます。チャンスセンターへ足を運ぶ理由は、ただひとつ……一攫千金の夢を叶える為である。

 夢を託したクジを買い、振り返ると、お婆ちゃんはまだ前屈体操をしていました。前に倒れ後ろに反れ、前に倒れ後ろに反れ、前に倒れ後ろに反れ──眺めていると、段々「前屈体操じゃないのかも」という考えが浮かんできた。そもそも、人通りがそれなりにある場所で、体操なんてするのかしらん。と、疑問を感じたのもある。
 ふと、お婆ちゃんと目が合った。私の裸眼の視力は0.05程しかないけれど、おおよそ5メートル先にいる彼女の視線と、自分の視線が混じり合ったことだけは十分に分かったのです。その瞬間、私は小走りに駆け寄った。「拾いましょうか?」という一言が自然と出た。
 私の問いかけに、お婆ちゃんはついと地面を人差し指で指して言いました。
「それを拾って欲しいの」
 お婆ちゃんの人差し指には、指先ほどの大きさの白い球体──BB弾があった。

 

お婆ちゃんとBB弾と私

 お婆ちゃんは前屈をしているわけでも、体操をしているわけでもなかった。ただ地面の──煉瓦敷きの地面に落ちていたBB弾を拾おうとしていたのでした。ごめん、お婆ちゃん。体操だと思って最初にスルーして。

 BB弾はお婆ちゃんの足元の、煉瓦と煉瓦の間にある溝にひっそりと落ちていた。0.05の視力では、お婆ちゃんと目が合ったことは分かっても、小指の先程の小さな球体の存在を1発で捉えることは限りなく不可能に近かった。最初は「え、それ? って、どれ?」と戸惑ったものです。もちろん内心で。

 存在を目視で捉えたところで「これですか?」と指し示すと、お婆ちゃんは満足そうな笑顔で頷いた。正直、何か大切な物を落としたから拾おうとしていたと思っていたのだけれど……。元々落ちていた(かもしれない)BB弾なぞを、杖を突きつつ必死に拾おうとしていた彼女の行動に、些かの疑問が瞬間的に芽生えたのは否めない。なぜ、BB弾を拾おうとしていたのか。

 その答えは、お婆ちゃん自らが教えてくれました。

 どうやらお婆ちゃんの孫が、BB弾を集めているらしかった。残念ながらヘタレな私は、お孫さんの年齢をそれとなく聞くことは出来なかったけれど、「孫がこれを集めているんですよ」と語る柔らかい声色と目尻の緩んだ皺が、BB弾の価値を雄弁に語っていたのでした。

 

BB弾と懐古心

 孫がBB弾を集めているという一言を聞いて、私が感じたことは、「BB弾を集める習性は、今も昔も変わらずなのだなぁ」ということだった。

 私も、小学生の頃はBB弾を集めていたものです。

 上級生や同級生の中にエアガンを頻繁に打つ青少年たちがいて、よく空き地などでパンパンしていましたから。彼らが居なくなった後に、残されたBB弾を友人たちと拾うのが一時期ブームでした。白、黒、黄色、透明感のある黄緑色などなど……豊富なカラーで作られているBB弾は、物珍しさと相俟って、一種の『宝物』のような価値を私に齎してくれていたのです。

 私がBB弾収集に夢中になっていた時代と比べて、現代はいろんな物で溢れています。もちろんあの頃も物は溢れていたけれど、現代のような、1人1台、小型ゲーム機が買い与えられるなんて家庭は、ごく稀であったし、携帯だって大人だけが手にすることの出来るアイテムだった。子供が持てるのは精々ポケベルぐらいだった気がする。

 小型ゲーム機どころか、スマホや高性能PCが世に出回っている今日。専用機を買い与えられることはなくとも、1家に1台必ずスマホがあって、愉快な動画を観たりゲームに興じれる時代で、ポケモンではなくBB弾を集めているとは……。

 私は懐かしい気持ちと共に、「BB弾を集める子供の習性は、変わらないんだな」「まさか必ずや通る道なのか?」と、笑みを堪えることが出来なかったのでした。

 

BB弾=宝物という“価値観”

 ふと、考えてみる──BB弾に『宝物』と近い価値を見出していたのは、正確には幾つの頃だっただろう。遊んでいた行動範囲や、記憶している収集場所からして、恐らく小学校3年生か、4年生の始めの頃だったと思う。

 あれから幾つもの歳を重ねた私に、BB弾=宝物という“価値観”はない。BB弾はただのプラスチック製品であり、子供が持てば玩具の、サバゲー大好きな大きなお友だちが持てば戦闘アイテムの1つに過ぎないものです。そして、地面に転がったBB弾は、私にとってゴミでしかありません。

 子供の頃には『宝物』だったBB弾の価値が『ゴミ』に成り下がったからといって、決して私が冷たい大人になってしまったとか、純粋さが全く失われてしまったというわけではない。多分、きっと。

 ……否、純粋さは失われたかな。『お宝』といえば金銀財宝、金目のものであると目をドルマークにして豪語できるし、金に変換されないハズレくじは只の紙屑だと思っている。ミニスカートのJK並びにJDが目の前を歩いていたら、下からのアングルで眺めてみたくなるし、綺麗なお姉さんの綺麗な胸元も観察したくなる。あわよくば指先で突っつきたい。大槻ひびきちゃんが大好きで、夜中にお世話になったこともある。GでLな作品は大好物である。BでLな作品も、ものによっては大変美味しく頂ける(ただし二次元に限る)。

 だから、まあ、汚れのない純粋無垢な大人ではないのだろう。むしろ汚れに汚れた大人なのでございます。恥ずかしながら。というか、純粋無垢な大人って逆に怖くないか……自分で言っておいてなんだけど。

  しかし、「汚れた大人になった」ことと「BB弾の価値が『ゴミ』になった」は、イコールでは繋がらない。そこは単純な成長であり、価値観が変化してしまっただけなのだと思う。

 そう、価値観が変化して、BB弾に『宝物』のタグを貼る理由がなくなってしまっただけなのです。

 

『宝物』のタグを貼る理由

 幼い頃、BB弾を拾っていた理由のひとつは「色が綺麗だったから」だったと記憶している。大人になった今の頭で考えると、世の中には色がたくさん溢れていて、ついでに言えば人工的な眩しい光も余りあるほどに溢れている。その点もまた、今も当時も変わらない。

 でも、何故か私には、地面に転がるBB弾が妙に魅力的に見えたのです。コンクリートや芝生の上に、色付きのまんまるいプラスチック製品が点在しているというのも不思議でした。拾い始めた時なんて特に、BB弾がエアガンの弾という認識もなかったものですから、「如何して、こんなに小さくてまんまるい物が、地面に落ちているのだろう」と摩訶不思議だったのです。

 拾い始めてみると、最初は白ばかりだったものが、黄色のBB弾を発見するようになりました。そして白と黄色が続く途中で、黒色も時々混ざるようになりました。さらに、30個に1個の割合で、蛍光緑のBB弾を発見することもありました。蛍光緑のBB弾はレアで、ポケモンGOで例えるならフシギバナのような存在です。

 レアな色合いのBB弾を発見したら、もう止まりません。元来持ち合わせていた収集癖も爆発して、狂ったように「綺麗な色のBB弾」を探すため地面を見据えました。もしもBB弾に金銭的価値があったなら、当時の私は億万長者だったに違いない──そのぐらい大量に拾い集めました。そして「まんまるで色が綺麗だから」という理由だけで、拾ったBB弾に『宝物』のタグを貼り付けたのです。

 歳を重ね、価値観に変化が起こってしまった私は、ただ「まんまるで色が綺麗だから」という理由で『宝物』のタグを貼り付けられなくなってしまった。貼り付けていても、剥がして別の物に貼るようになってしまった。文字に書き起こすと淋して、妙に切ない気持ちになるけれど、これが現実なのです。

 

お婆ちゃんにとってのBB弾

 お婆ちゃんにとって、BB弾は『宝物』ではないのかもしれない。でも、彼女にとってBB弾は、只の『ゴミ』とも言えない代物なのでしょう。

 何故なら「孫が集めている」ものだから。

 もしも孫が集めていなければ、お婆ちゃんは杖を突きながら、必死にBB弾を拾おうなんてしなかったに違いありません。それどころか、地面に白色のまんまるいプラスチック製品が落ちていることにさえ、気付かなかっただろう。

 大好きで大切で、可愛くて仕方がない孫が集めているから──そんな理由で彼女は、不自由な体を必死に曲げて、何度も何度もBB弾を拾い上げることにチャレンジしていたのです。憶測に過ぎないのですが、そんな気がします。お婆ちゃん、最初にスルーして本当にごめんね。

 

小さな理由で価値が変化する──『ゴミ』と『宝物』は紙一重

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 私がBB弾を収集していた理由と、お婆ちゃんが必死に拾おうとしていた理由は似て非なるものです。というか、一緒にするのも烏滸がましい。お婆ちゃん、ごめん。

 しかし、大多数が『ゴミ』として認識して見向きもしない代物を、些細な理由から『大切なもの』として扱う行為は、非常に似ていると思うのです。これは、古本を大切に扱うだとか、骨董品を保存するのとは訳が違います。道端に落ちているBB弾には、金銭的価値も歴史的価値も何もないからです。

 そこにあるのは、言うなれば、精神的価値なのだと思います。◯◯価値に当てはめるのならば。

 兎にも角にも。どんなに些細で小さな理由であれ、その人にとって“何物にも代えがたい理由”であれば『ゴミ』が『ゴミ以上』ないし『宝物』の価値を得るというのは、なんとも不思議で素敵な感覚だなぁと思いました。私にも子供や孫が出来て、その子がBB弾を拾い始めたら、協力しちゃうかもしれない。「やっぱ子供ってBB弾集めるんだな……否、遺伝か?」なんて考えながら。