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『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』から見える過去・現代・未来

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『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を手にしたのは2014年の夏──毎年行われる「カドフェス」で、ピンク色のかわいい表紙に胸キュンしてしまったからだ。つまり角川文庫の戦略にホイホイとはまったのである。

 ホイホイされたはよいものの、ノンフィクション作品をそれほど得意としていなかった当時から今日までずっと積んでいた本書。やっと……やっと! 読みました。

 率直な感想を一言でいえば、「これは過去の話じゃないな」でしょうか。内容は過去なんだけど、「現代でもあり得る話」といっても過言じゃない内容でした。

30年前の友人に会いに行く、大人になった「少女」達の物語

 1960〜64年──9〜14歳という多感な時期を在プラハ・ソビエト学校で過ごした著者、米原万里(愛称・マリ)。当時の級友であり、とても仲の良かった少女3人の元へ30年ぶりに訪れるストーリーを綴ったのが本書『嘘つきアーニャと真っ赤の真実』です。

 勉強は苦手だけど驚くほどませていて、マリの「性教育者」的人物でもあったギリシャの少女──足を踏み入れたことのない故国ギリシャへの郷愁を募らせていたリッツァ。

 どうしようもない嘘吐きだけれど、みんなに愛されていたルーマニアの少女──共産主義者を名乗っておきながら民間人とは思えないほど豪華で、ブルジョア的生活を「あたりまえ」のように送っていたアーニャ。

 美人で冷静沈着な優等生であり、ユーゴスラビアから来た転入生──周りよりもいくつか年上のような大人っぽい雰囲気で一線を画し、マリ自身もどこか似たようなものを感じていたヤスミンカ。

 50ヶ国以上もの少年少女たちに囲まれた青春は、著者であるマリの心に色濃く残ってたに違いありません。

 母国日本に帰国後、取り巻く環境や進学などで3人の少女とは徐々に疎遠になり、やがて連絡さえつかなくなってしまします。しかし、ふとしたキッカケから「プラハ・ソビエト学校の級友に会いたい!」という衝動に駆られたマリは、学校のあったプラハなどに足を運んでアーニャたちの手掛かりを捜し出すのです。

 その途中、30年前には知らなかったことや、プラハ・ソビエト学校を離れてからのことをマリは次々に知っていきます。ノンフィクション故に絶大なリアリティを持って語られる出来事や事実。読んでいる私の胸にもグッとくるものがありました。

 しかも、ただただ「感動する」「考えさせられる」だけではない衝撃だった。本書は米原万里の自伝書であり、大人になった「少女達」のドキュメンタリーであり、歴史書であり──そして現代であり未来を描いていると思えたのです。

戦争、紛争、崩壊、巻き添えになる少年少女たち

 級友に会いに行くマリが主人公その1であるなら、主人公その2は20世紀後半──激動の時代を迎えた東ヨーロッパです。

「プラハの春」「チェコ事件」「ソ連崩壊」など歴史的な体制の崩壊や民族紛争が、本書の背景に描かれている。特に「プラハの春」は度々登場していて、それらはマリの住む日本から海と国を隔てた遠くの場所で、少女3人を飲み込み影響を及ぼしていきます

『嘘吐きアーニャの真っ赤な真実』を読んでいると“少女3人を飲み込み影響を及ぼした”シーンや明るみになる事実が、ワクワクとドキドキに溢れていてとても刺激的です。ストーリーのよいスパイスになっているのは間違いない。

 ただ、そのワクワクとドキドキのスパイスを「過去」のものと認識するのは間違いだと思う。

 3人の少女達は30年後、故国ではない場所でそれぞれの暮らしを営んでいる。その暮らしは決して「少女の頃に夢見ていた生活」ではなく、むしろギャップとの差が激しいものだった。

 どうして「少女の頃に夢見ていた生活」とは遠い暮らしになったかといえば、少女達を飲み込んだ歴史的な出来事──体制の崩壊や紛争に他なりません。そして過去の少女達と同じく、現代に生きる少年少女も飲み込まれ影響を受けているです。

 たとえば「アラブの春」と密接に関係している、2011年に始まった「シリア内戦」──激戦区となり、シリア政府軍に制圧されたアレッポ。これまでの推定死者数は47万人、負傷者数は190万人*1とされている。

 いずれも兵器や武器を持たない“純粋な民間人”以外の人数が含まれているが、観光地や市街地、公共の場での爆撃、虐殺、化学兵器の使用が行われたことを考えると、数多くの“純粋な民間人”──非力な少年少女や女性達が有無を言わさず傷付けられ、命を落としているのは想像に難くない。

 国家や民族という大きな括りの争いごとの巻き添えを食らったリッツァ、アーニャ、ヤスミンカ、日本に帰国したマリ。彼女たちが少女時代を過ごした頃よりも、現代は巻き添えが激化し深刻化しているかもしれない。そしてその影響は成長してからも続いていく

どんな時代でも変わらない「愛国心」

「愛国心」だって、時代や環境を問わず変わらないものであるに違いありません。

異国、異文化、異邦人に接したとき、人は自己を自己たらしめ、他者を隔てるすべてのものを確認しようと躍起になる。自分に連なる祖先、文化を育んだ自然条件、その他諸々のものに突然親近感を抱く。これは食欲や性欲に並ぶような、一種の自己保全本能、自己肯定本能のようなものではないだろうか。
米原万里著『嘘吐きアーニャと真っ赤な真実』P.123より引用

 解説にて斎藤美奈子女史が記しているとおり、この指摘は的を射ていると思う。まあ、本書に記されている「愛国心」について全てを肯定するのは些かはばかられる部分もあるけれど。マリの青春時代である「過去」も私たちが生きる「現代」も、これからの「未来」でだって母国に対する気持ちは変わらないのではないでしょうか。

 だって平和ボケしている日本人だって異国の地に立てば「愛国心」が芽生えるだろうし、戦争が起これば母国のために必死になるに違いない。逆に戦争反対の声を上げる行為だって「愛国心」あっての活動なのでは。

 結局のところ、「愛国心」なんてものの形は人それぞれなのかな? とも思えてきます。

 シリア難民、アレッポから避難している人々だって、きっとそうだ。元々は母国を愛していたし、いつかは母国に帰りたいに違いない。──中にはヤスミンカのように人間関係まで破壊される人、リッツァのように異国で誰かのために働く人、富を享受し母国を捨てる人もいる。マリのように再会のために動き、感動と驚きに揺れる人だっているでしょう。

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』に記されていた事実と、4人の少女達に起こったあらゆることは、抱いていた「愛国心」も含めて我々の過去であり現代であり未来なんじゃないか。そんな気がしてなりません。

*1:シリア政策研究センターによる2016年時点での推定人数