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『夜と霧 新版』から私達が学ばなければいけないこと

 戦争に関する本が嫌いだった。我が家イチの読書家である母が「戦争モノは『アンネの日記』しか読んだことがない」といって嫌っていたから、家に戦争関連の書物は一冊もない。

 おかげで、その手の作品を初めて手にしたのは小学生の頃で。けれど、教科書以外で読むことは出来なかった。『はだしのゲン』も1巻冒頭で挫折した。母が読んだ『アンネの日記』も読んでいない。現実逃避だと分かっていても、戦争における残酷な描写を直視するのが嫌だったのです。

 あらゆる戦争モノを避け続けて27年。これではいけない、過去に現実だったことにも目を向けなければならぬ──と思い立ち、選んだのが『夜と霧 新版』である。

 ほしいものリストから届いたときには、内心「ついに来ちゃったな……」と思いました。来ちゃった、来てしまった。届いたからには読まねば、逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ

心理学者が見た強制収容所、被収容者の体験記

 本書『夜と霧 新版』は霜山徳爾氏訳の『夜と霧──ドイツ強制収容所の記録』を池田香代子女史が改めて翻訳した一冊。ユダヤ人であり心理学者だった著者、ヴィクトール・E・フランクルの、実際に収容された先で見て感じたことがまとめられている。いわば体験記です。

 体験記といっても、とびっきり残酷で盛大な虐殺模様が描写されているわけではありません。それよりも被収容者の誰もに降りかかった「小さな」犠牲や「小さな」死が主で、心理学の観点から描かれている。

 “あの”強制収容所へ移送されてしまった事実に恐怖しながらも「さほど悪いようにはならないだろう」という恩赦妄想に囚われる著者たち。最初の選別後、文字通りなにもかもを取り上げられ、人生さえ「全てなかったことにする」第1段階──収容ショック。

 ボロを着せられた自分たちの外見を嫌悪の対象とし、家族や愛する人に会いたいと思う感情を抹消。被収容者の内面がじわじわと死んでいき、仲間が殴られ、発疹チフスで生き絶え、子供の指がもげてもなにも感じない。精神の退行、己の生命維持以外のものに対して無関心になる第2段階──感動の消滅(アパシー)。

 感動の消滅によって「喜び」の感情も失い、収容所から解放された後は「離人症」となった被収容者。現実に掴みかかって何日もむさぼり食う体と収容所内に蔓延していた権力、暴力、恣意などに縛られる心を抱えつつ常識と人間らしさを取り戻そうとする第3段階──解放、自由を得てからの不満と失意。

 以上、3段階*1に分けて記されたフランクル氏の体験は私に大きな衝撃を与えました

 なにが衝撃的だったかって、本書はただの戦争モノではなかったから。それどころか「人間」は「人間」として「人間」らしく生きるのがどんなに難しいか、「生きる」とはどういう意味なのかを説いていたからです。

環境を問わず「まともな人間」として生きるには

 著者は本書のなかで人間には2つの種族──「まともな人間」と「まともじゃない人間」しかいないと定義しています。

 この定義には私も以前から賛同している。しかし、平和ボケしていると揶揄されても仕方がない日本でのうのうと生きている私と、ナチス・ドイツ時代に強制収容所という名状しがたい環境を生き抜いたフランクル氏の定義では重みがまるで違う。比べるのも烏滸がましいけれど、フランクル氏が口にする「『まともな人間』と『まともじゃない人間』しかいない」のほうが圧倒的に重い。

 もしも私が過酷な環境に身を置くことになったとき──身近で可能性が大いにあるとすれば、関東大震災がドカンとやってきた場合。果たして「まともな人間」として生きられるのか。感情を消失せず、自分の生以外に関心を持ち、モラルを捨てずに生き抜けるのか。生きる目的や頑張り抜く意味を失わず、時には見出して抵抗し続けられるのか。

「勉強になった」とか「参考になった」とか「考えさせられた」なんて言葉では収まらない。読みながら「自分は人間らしく生きて、生涯を終えることが出来るのか」という、考えたことがあるようでない問いを突きつけられた気分になりました。

ただの戦争モノではない、"人間として生きる"ことを説く一冊

 冒頭で「戦争モノも読まねば、過去の現実に目を向けねば」と書いたけれど、本書『夜と霧 新版』はただの戦争モノやナチス強制収容所体験記ではなかった。“人間として生きる”意味と素晴らしさを説き、そうあるためのヒントを与え、読者に問う内容でした。

 もちろん収容所内でなにが起こり、どんな人達がいたのか。著者に訪れた運命と過ぎ去った幸運も記されている。ただ、ナチス・ドイツや強制収容所についての知識や情報が並み以下*2なので、ピンとこない部分もありました。完全に、この時代の書物を避け続けた代償です。浅識な大人になってしまった自分が恥ずかしい。

 恐らく標準程度のナチスやアウシュヴィッツに関する知識があれば、本書を十分に理解できたかもしれません。さらに旧版に位置づけられる霜山訳『夜と霧』を読んでいれば、2冊の違いを比較して楽しめたでしょう。

 まあでも、初めてのナチス関連本が本書だったのは幸運だなと思いました。世界的なロングセラーとして評価され続けれいるのも納得。

 先述では「もしも関東大震災がきたとき……」で考えたけれど、厳密には日常の生活でも正しい判断、決断を下すことが求められているわけですし。常にモラルと人間らしさを持って生きなければなりませんから。いつだって何度だって読み返すべき本ではないでしょうか。

 なんてったって、何歳になっても失ってはいけない教訓が『夜と霧 新版』には詰まっているからです。読んでいない人も、前に読んでから久しい人も読んで欲しい本書。私もこれから先、何度でも読み返したいと思いました。

*1:各段階に表記した「感動の消滅(アパシー)」などは『夜と霧 新版』を読んだ際にもっとも強く感じた内容をザックリと提示するため、本書内の文言を引用して記述しただけです。実際の目次とは異なります。

*2:ユダヤ人や反ナチ分子などは拘束されると強制収容所へ移送され、ガス室に送られるか銃殺される。もしくは過酷な労働をさせられた末に殺される。どちらにしても行き着く先は死のみ。